横瀬景繁 〜一息ついた安定期〜


生年不詳〜大永二年(諸説あり)

横瀬氏は武蔵七党のうちの猪俣党の流れを組み、小野篁の末裔という事で小野姓を自称していました。。
それはつまり、孝昭天皇の子孫という事なんですけど、どうなんでしょうね。
途中、婿養子に新田義貞の孫を迎えたという家伝を元に、後には新田氏を自称することとなります。

横瀬成繁の子として生まれ、文亀元年に父の死に伴い横瀬氏の家督を継ぎ、岩松氏の筆頭家老となります。

時代はすでに戦国の熱気が全国に広まりつつある頃、関東は長享の乱(両上杉家による抗争)の真っ最中でした。
祖父や父の代での岩松家の横瀬氏による専横体制が確立されていたこと、及び現在の岩松氏の当主昌純が幼かった事等から、景繁は名代として各地を転戦します。

長享の乱の一大決戦であったの武蔵立河原の戦い(永正元年)にも参戦し、活躍します。
乱での戦功に対して関東管領上杉憲房から敵方に属していた成田親泰の旧領を与えられたりもしています。

長享の乱が終結してしばらくすると、永正の乱が発生します。
これは長享の乱で和平が結ばれたものの、両上杉家のそれぞれの内部で抗争が起こり結果として後北條氏の台頭を許す事に繋がる戦乱です。

景繁は永正の乱(特に山内上杉家に関するもの)にも介入します。
永正の乱の最中の永正十一年に上洛し、時の将軍である第十代義稙に謁見しています。

永正の乱では上杉顕実・長尾顕方・成田顕泰らと戦い順調に戦功を重ねますが、大永二年に没します。(永正十七年説あり)

景繁が横瀬氏の当主であった時代は、岩松氏当主が成長途中であったこともあり主家との内紛の様なものは主立っては起こっていません。
その分、周辺との戦いや関東の戦乱で活躍することも多かったでしょう。

横瀬氏の当主であり、岩松家の筆頭家老の地位は子である横瀬泰繁が継ぎます。
成長していた岩松昌純、遂に暴発!

なお大永三年に起こった須賀合戦に嫡子泰繁とともに出陣したが、景繁はその戦で討死したという説があるそうですが、群馬県史では否定されています。
横瀬国経という人物と事績が混同されているのでは?という見解です。

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