羊太夫 〜謎多き上毛の英雄〜


多胡郡を中心に周辺に伝わる伝説的人物。

朱鳥九年未年の未の月、未の日、未の刻に生まれたため、「羊太夫」と周辺の人物から呼ばれていました。
和銅四年(711)に多胡郡の郡司に任命されました。
和銅四年といえば、平城京が出来た翌年で、都は奈良にありました。太夫は毎日のように都と多胡郡を往復したそうです。
太夫には八束小脛という家臣がおり、小脛には背中に羽が生えていました。
ある日、興味を覚えた太夫はその羽を取ってしまいます。
実は、小脛が馬の速度について移動する守り神だったのですが、それがないため、小脛は太夫に付いて行くことができなくなり、そのせいで何かと不自由になった太夫も次第に都に行かなくなりました。
朝廷側はこれを「羊太夫は何かたくらんでいる」と考え討伐軍を差し向けます。
太夫は敗北し処刑されました。養老五年(721)の事と伝えられています。


・・・と、言うのがオーソドックスな伝説を集約した感じの話ですが、実際のところは不明な点が多いです。
一部では小幡太郎太夫勝定の息子で、名を宗勝というと言われてます。
生没年も朱鳥九年(695)〜養老五年(721)という話もあります。

・・・が

羊太夫を討伐した地方豪族が小幡氏ではないか?という説もあります。
藤岡市にある七興山古墳も、羊太夫が討伐される際に逃げた七人の妻の興を名の由来にしているという話もあります。
他には、太夫と小脛の関係が「一日で富士と都を往復して走ってついてくる家臣がいた」という伝説をもつ聖徳太子との関連も思い浮かびます。

とにかく伝説に満ちた謎の人。

ところで、多胡群といえば、日本三大古碑の一つである「多胡碑」にも「羊」という文字(豪族もしくは人物名と思われる)が見えるとの事ですが、関連性は不明です。
羊は日本古来種ではないので、何かの関係で文字を載せたのであれば、そこには何かが介在していた可能性はあるとは思いますが。
ちょうど、多胡碑に記してある内容は「上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡、あわせて三郡のうち三百戸を郡となして羊に給い、多胡郡となせ。和銅四年三月九日甲寅の命令である」という内容なので、全く無関係ではないとは考えられます。

江戸時代に記された「甲子夜話」という書物には「上州多胡碑の近くの古墳から<JNRI>と書かれた古い遺物が出てきたという話がある」と記されています。
JNRIとは「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という意味を表す言葉であるといわれています。
西暦700年前後では、いまだ日本にはキリスト教は伝来していないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実際この時代に隣国唐にはネストリウス派キリスト教徒(いわゆる景教)が寺院を築いているため、まんざら無理という話ではありません。
羊太夫の本当の討伐理由は反乱の疑いではなく、日本の固有種ではない羊を引き連れてきた景教徒遊牧民との宗教戦争・・・・?
なんてなw

とにもかくにも、今も昔も羊太夫の伝説は吉井町他に残りますが、多胡碑や古墳、少数の神社等が伝説を補強するのみで確定的な羊太夫の痕跡は残っておりません。

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