唐沢玄蕃 〜真田に仕えた親子鷹〜


初代:生年不詳〜永禄八年(西暦1565年)

元々、吾妻岩櫃城を治めていた齋藤氏に仕えていたようです。
杢之助と名乗り、唐沢久幸と称したそうです。

永禄六年に、真田幸隆が吾妻を攻略する任についている最中、岩櫃城の攻略のために周辺の支城群を次々と落とします。
初代玄蕃は、その中で内山城(仙蔵の城)の城代であった富澤加賀が真田に降伏し、これに合わせて初代玄蕃も真田に降伏。

同年、幸隆は調略を用いて岩櫃城内に内応者を作り、岩櫃城は落城します。
齋藤氏は逃亡しますが、初代玄蕃以下唐沢氏は降伏の後、真田氏の部下として働く事となります。

その後、真田氏による吾妻経略の最中に嵩山城攻防線にて、初代玄蕃は討ち死にしました。
この時の戦いの奮闘を称え、武田信玄は子供に充てて感状を出しています。


二代目:生没年不詳

父の跡を継いだ二代目玄蕃は、初名は「於猿」と呼ばれ、唐沢久基と称したと言われています。
見事な技量で「忍び名人」「飛び六法」と言われ、跳躍術・火薬術に長けていたようです。

真田昌幸に仕え、妻には同じ忍びである割田重勝の娘を迎えていました。

敵城から夜陰にまぎれ見事な鐙を馬ごと盗み出した逸話が伝えられています。
(ただこの逸話は割田重勝と被る面があるので、何とも言えませんが・・・)

その後は、昌幸の部将の一人として数々の戦いに参加します。
小田原の陣における松井田城攻めに参加したことが確認されています。

その後、真田氏は数奇な運命をたどりますが、二代目玄蕃がどうなったのかは不明です。
ただ、中之条町に供養塔が残されており、当地との縁は残ったものと推察されます

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