呑龍上人 〜太田金山子育て呑龍〜


弘治二年〜元和九年

呑龍は県内では「呑龍上人」と呼ばれ、尊崇されています。
江戸前期の浄土宗の高僧で、もともとは武蔵国埼玉郡(今の春日部市周辺とのこと)の生まれでした。

幼少期は故郷にあった林西寺で岌弁という僧侶に弟子入りして得度し、さらに増上寺で学びました。
その後、八王子にある大善寺というお寺の住職を務める事になります

呑龍上人が大善寺の住職を務めていた時代に、徳川家康が徳川氏の祖である新田義重を祀るために寺院の建立を企図します。
場所は新田氏の出発点である上野国太田、これがいわゆる義重山大光院新田寺に当たります。

建立に当たり家康は、呑龍に開山を命じました。慶長一八年の事です。
呑龍は早速上野国に向かい大光院を開基します。

大光院では仏法を教え経を説く名僧としてたちまち有名になり、たくさんの学僧が院を訪れました。
評判は広まり、近所の百姓等も呑龍の教えを請いに来院し、呑龍も身分に分け隔てなく説法したそうです。

しかし、慶長年間と言えばようやく大坂の陣が終わったばかりの乱世の残滓を引きずっている時代です。
戦や天災の影響で、百姓等は子をたくさん養う事は出来ず、子が増えすぎた家では捨て子や間引き等が横行していました。
そんな現状を垣間見た呑龍は、大光院の費用にて捨て子らを養育し始めます。

大光院に集まった子供らは7歳になるまで、呑龍の弟子という名目で寺で生活を行いました。

この事から呑龍は「子育て呑龍」と呼ばれ広く民衆から崇敬されることとなります。

ところが元和二年、呑龍は罪を問われ寺を譴責されることになりました。
ただし、そのきっかけは「子育て呑龍」の名に恥じないものでした。

親の病を治そうと鶴を殺した源次兵衛という子供がいました。
食べさせようとしたんでしょうかね?鶴肉は高級食材らしいですけど・・・
ただ、当時は鶴を捕獲することは禁じられていました(藩によって違いますが)。
親孝行の為とはいえ法を犯してしまった源次兵衛は、大光院に逃げてきました。
事情を聴いた呑龍は、源次兵衛をかくまう事にしました。

しかし、事は露見し、犯罪者を匿った呑龍は幕府より叱責を受けます。
呑龍のところへの幕府の使者が幾度となくやってきて厳しい話が続いたことから、呑龍は源氏兵衛を弟子として大光院から出て行きました。
峠を越え、信濃に入り小諸にある仏光寺という寺に逃れました。

小諸仏光寺に隠棲すること五年あまり、元和七年に遂に幕府から罪を許す旨の連絡が入り呑龍は再び大光院に戻り生涯を閉じます。
なお、呑龍という名は帝国陸軍の百式爆撃機に使用されていますが、これは機体を設計した中島飛行機が群馬県太田市にあったことから由来しています。

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