国定忠治 〜江戸時代最後の任侠〜


文化七年(1810)〜嘉永三年(1850) 

佐波郡東村生まれ本名長岡忠治郎

当時国定村と呼ばれていた場所で比較的豊であった長岡家の次男として、忠治は生まれました。
貧農の子という説もありますが、講談の中での話。
農民にもかかわらず苗字があったことからもある程度の富農であったという証拠でしょう。
新田氏の血を引くとも、その家臣の血を引くともいわれていますが、詳細はわかりません。

若い頃から渡世の世界に入り、地元の顔役を故あって殺したりして名を広めていきます。
地元の大親分からその地盤を引き継いだりしながら徐々に勢力をのばしていきますが博徒島村伊三郎を殺害したことから幕府の追及を受け、大戸の関所を抜け、長野に身を潜めます。

数年後、故郷上州に戻るため、今度は白昼堂々大戸の関所を破りました。
政情不安であったとはいえ、当時、関所破りは幕府の統治を揺るがす大事件であり、忠治の名を一層周囲にとどろかせる結果となりました。
途中、世良田近辺で賭場を開いたりしながら勢力を維持し、飢饉の際は私財をなげうち窮民を助けたり、湖沼の浚渫工事を引き受けたりといった話があります。
義賊伝説の一部ですが、どこまでが事実でどこまでが講談の中なのかは漫然としませんが、伝説が生まれる素地として、地元に受けがよく、それなりに何かをしていたのは確かのようです。

その後、幕府の追及の手が徐々に狭まると、いろいろな家を隠れ家として転々とするが、その最中に有名な「赤城の山も今宵限り、可愛い子分のてめえたちとも別れ別れになる門出だ」と、子分と別れさらに隠れます。

しかし最後は関八州取締の中山誠一郎に捕縛され大戸の関で磔にされます。
享年41歳。

その義賊的精神や反骨思想は上州人を現す一つの資質であり、最後まで節をまげずに公儀と戦い続けた姿勢は、後に新国劇や講談の世界で一大ムーブメントを起しました。
最近はやや忘れられ始めていますが、それでも、群馬県で調査を行うと、群馬で最も有名な人間は現在でもダントツで第一位となるほどの知名度を誇っています。

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