沼田万鬼斎 〜勝利、退去、復活、敗退、流転〜


沼田顕泰、後に入道して万鬼斎と号しました。

沼田顕泰という呼び名の方が当然メジャーですが、個人的に「万鬼斎」という号がグッとくるので、万鬼斎とタイトルしてみました。
以降は顕泰で通します。

顕泰は生没年不詳ですが、享禄年間には沼田城を築き幕岩城から移ってきた事が資料からわかります。
息子には憲泰、朝憲、景義、祐光らがいるとされています(沼田祐光については諸説あり)。
勇猛果敢で知勇に優れた武将と言われる傍ら、土地を横領したり上州沼田氏滅亡の要因を作ったと見られる事もあり評価は一定しません。
上州沼田氏は鎌倉時代に大友氏もしくは三浦氏等が同地を領し、沼田氏を名乗ったとされていますが確たることはわかりません。

沼田城を中心に現在の利根郡近辺に勢力を張った顕泰ですが、家中は関東管領派と北條派(関東公方派と見れるか?)に分かれます。
顕泰は管領派で当初は優勢だったものの、上杉憲政の越後への逃亡(顕泰が手引きしたという話も・・・)の後は劣勢となり、沼田城を追われ顕泰は越後へ逃亡します。
しかし、上杉憲政を奉じた長尾景虎が越山し沼田城を奪還、このとき顕泰も上州に戻ります。
関東幕注文には沼田衆の名があり、それを率いる者は顕泰と思われ復権した事が伺われます。
ただし、沼田城は越後勢の関東計略における重要拠点とされたためか、永禄五年辺りより長尾家(上杉家)の城代が置かれるようになりました。
この頃になると顕泰は天神城に居を移したと思われます。

晩年は末子であり、由良国繁に属して女淵城主であった平八郎景義を溺愛し、既に家督を譲っていた朝憲を謀略により殺害しました。
しかし、この行動は家中や上杉氏等の理解を得られず、逆に領地を追われ会津方面に逃亡したとされます。
ただ、この一連の騒動は不明な点も多く、利根郡に勢力を伸ばしたかった由良国繁が背後にいた、もしくは同じく沼田を狙っていた真田昌幸の陰謀であるという話もあります。
長野業政と真田幸隆のエピソードも参照)

会津逃亡後、消息は杳として知れません。

息子平八郎景義は、一説によれば12年後に兵を集め沼田城を奪還しようと試みますが、金子泰清により謀殺されます。
これ以降上州沼田氏は歴史から消えてしまい、滅亡したとされています。

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