「歴史のIF」と「歴史にIF」


歴史の書物を書く人や、歴史の関するサイトを運営する人の一部にこういう発言をする人がいる。

「歴史にIFは無い」と

確かに、字面を見ればその通りの話だ。
確定されていない歴史は除いて、ある程度判明している歴史は、筋書きのあるドラマだ。

だから、そこに「IF」が介在する余地は無い。

ここまでは、学問的な発想として当たり前な話だと思う。

でも、小生は「ここから」が大事。

「歴史にIF」はないけど、「歴史のIF」はあると思っている。

単純な日本語のレトリックかもしれないけど。

それでも小生はそう信じているから、今の今まで歴史を楽しんでこれたわけだから、しょうがないっちゃぁ、しょうがないわけで。

例えば

徳川家康が関ヶ原で負けるのを喜ぶ人がいる
上杉謙信が天下統一をする事を楽しむ人がいる
伊達政宗の活躍を望む人がいる
織田信長の海外雄飛を期待する人がいる

だから歴史は楽しいんでないか?

なんてね(^^)

ここからが主題です。

歴史は楽しめばいい!

誰が好き!彼が好き♪みたいなのが百家争鳴すればいいんです。

そして、それがどんどん盛り上がればいい。

そういうのが「歴史好き」を増やす事になる。

正確な史実ってのは確かに大事だろう。

でも、それをゴリ押ししたり、前面に出したりしては「学校教育」と同じじゃないのか?

だから、小生は述べたい。

「歴史は自由だ!」ってね。

秀吉は、ボケておかしくなった・・・から何?
秀吉の事績を評価するのがそんなに悪い事なのか?

家康は天下太平にして、素晴らしい政治家で武将だ!って?
若いころの失敗や、信長や秀吉とのスケールの比較をするのがそんなにダメなのか?批判されるような事なのか?

小生としては、醍醐寺を「めんどくさいから大五寺でええやんw」と筆を進める秀吉を好きだし、家康が三方が原の合戦で武田信玄にコテンパンにやられて逃げる最中に、饅頭を無銭飲食したうえに、結果、店主の婆様に追いつかれるっていうのも微笑ましいです。

家康を評価するなら、秀吉を評価する断面が来るだろうし、秀吉を評価するなら信長を評価する断面が来る。
信長を評価する断面が来るなら、今川義元を評価しなければいけないし、義元より氏親なんかすげーし、氏親を評価するなら伊勢盛時が最強な感じになるけど、伊勢盛時と向こうを張った太田道灌とか長尾景春なんかも、すげーってなるわけで・・・

そういう風に、いろいろなものを褒めて感動するのが歴史の愉しみ方だと思うんだけどなぁ。

一人の武将や、ひとつの事跡を追いかけるのも楽しいと思う。
でも、それは学者的・研究的なものに思えて小生はあまり手を出せない。

無論、主軸があるわけだから「○○について〜」で派生していろいろな物に目がいくのが大事なんだろうし、それとは逆に「○○について極める」のも大事なんだろう。

けど。。。。ね

派生していろいろ見れるなら良いけど、主軸にこだわり過ぎて他を貶すのは良くない・・・と思う。

それは研究者や歴史家の仕事であって、小生は「個人で歴史を楽しむ」スタンスなのだから、そういうスタンスにあると自覚する人は、そういう意識であってほしい。

無論、議論は良い
議論は良いし、議論の過程で相手をやり込めるために、多少の「厳しい発言」はあるだろう。

でも、そこまででいいんじゃないか?

なんでもかんでも「○○マンセー」的な事にしなければならないのなら、それは「歴史好き」ではない・・・と思う。

小生は歴史が好きだ。

だから、いろんな事を知りたいと思う。

その過程での小生の意見に文句を言う人も、過去にはいた。
でも、その類の人は、どの人をとっても小生の意見には疑問符を投げかけるなり、全否定するなりで、小生との交流を断とうとする。
それほど、他者の別視点を受け入れるのが嫌なのか?
いや、嫌だとしても議論をする自信がないのか?

小生の歴史観の中で、存在そのものを完全否定するような歴史上の人物は一人としていない。

だから、評価は好評・不評あって当然なのだが、時として、自分の大好きな人物に対する「不評」を受け付けない人がいる。

まあ、当人の想いもあろうから、そうそう文句を言ったりはしないが。

それでも、小生は「歴史のIFはある」を信念に、いろんな事を考えて行きたいと思いますよ。

小生の好きな人物に「不評」があっても、受け止めますしね。
100点満点の人なんか、歴史上に数えるほどしかいないでしょう。
少なくとも、日本史では・・・・・・誰?

最後になりますが、歴史好きと歴史人物好きは大きく違いますが、人物評価にしたところで、善悪合わせて飲み込めるのが、本当のファンだと思ってます。

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