続・平家物語?!


最初に述べておきますが、このテキストのほとんどは平成14〜15年頃に執筆したものです。
当時、開設していたサイトで歴史的な話をまとめた場所に掲載していました。
なので、調査年次もそんな時期でありますから、現時点では状況の変化や研究成果による内容の変更がある場合があります。
また、市町村名については平成の大合併前の情報となっていますのでご注意ください。
なお、言い回しや誤字脱字は今回修正・訂正してありますので予めご了承ください。
以上、注意事項という名の筆者の言い訳でしたw

さて本題
「軍記物」として日本文学に燦然と輝く「平家物語」
平家の興隆と没落を描き、琵琶法師により広められた名作です。
物語は平家が壇ノ浦で敗北し終わります。
その後の歴史を学ぶには「吾妻鏡」を参照しなくてはなりません。

ただ、平家落人伝説は結構耳にしますね。
そこで、ネット上で調べられるだけとりあえず調べてみました。
北は宮城から南は鹿児島まで。
それこそ、「義経北行伝説」に対抗できるだけの分量があります。
いや、それ以上か?実際に隠れ里として残っている地域もありますし。

一応、同じ地域内でも別の伝説がある場合は分割換算して49箇所に伝説が残っていました。(馮道調べ)
ここまであると、中には眉唾なものもありますが、平家の落人というのは結構事実で安徳天皇も生きていたのではないかとさえ思えてきます。

さて、では、北から順に並べてみたので、つまらない文章構成かもしれませんが、のんびりご覧ください。
地域名 人名 落人伝説の概要
宮城県仙台市1 平長基 秋保氏という土着の豪族があり、その発祥は壇ノ浦で敗れた平氏であるとのこと。平重盛を祖とする平長基という人物が、当地に落ちのび秋保氏の祖となったらしい。
宮城県仙台市2 平貞義 市の西部に「じょうぎ」という名の集落があり、平家の落人が隠れたとされている。平貞義が流れ着いたのでそういう名になったようだ。
福島県檜枝岐村 不明 ここの村人は平・藤原氏の後裔という伝承があり、村内には星や橘といった苗字が多い。古文書等が火災で焼失したようだが、揚羽蝶紋の墓碑や重箱が残っているとのこと。
栃木県栗山町1 平藤房 壇ノ浦から逃げた平氏のうち、平藤房一派が隠れ住み里を開いたとの伝説がある。伝承では「鳴き声をあげる鶏は飼わない」「鯉のぼりは上げない」など、目立たないよう生活してきたが、運悪く源氏に見つかり滅ぼされたとか。また、武具を埋めた場所や平氏の財宝等の伝説もあるらしい。関東圏では一番有名かも。
栃木県栗山町2 平忠実 伝承によれば平忠実が落ちのびたという話と、忠実が埋めたと伝わる鞍が出土したようである。
群馬県六合村 不明 平家の落人が流れ着いたという説がある。一部の集落では元旦に門松を出さないところもある。
長野県栄村 平勝秀 中津川の近辺に残る伝説では源頼朝に敗れた平勝秀が逃れた地と伝えられられている。新潟県津南町と境を接しており、双方の町村を合わせて「秋山」という集落で平氏の残党が残ったらしい。
新潟県津南町 平勝秀 中津川の近辺に残る伝説では源頼朝に敗れた平勝秀が逃れた地と伝えられられている。長野県栄村と境を接しており、双方の町村を合わせて「秋山」という集落で平氏の残党が残ったらしい。
富山県上平村 不明 合掌造りで有名な五箇山にも落人伝説がある。今から二百年ほど前の「北茎」という人の著書「北国巡杖記」に落人伝説が出ているが、この人物が何を見て落人伝説を記したかは不明。平維盛の子孫という説もあるがはっきりしない。郡平村・利賀村についても、「五箇山」という同一地域であるため同じ伝承が伝わっているらしい。
富山県郡平村 不明 合掌造りで有名な五箇山にも落人伝説がある。今から二百年ほど前の「北茎」という人の著書「北国巡杖記」に落人伝説が出ているが、この人物が何を見て落人伝説を記したかは不明。平維盛の子孫という説もあるがはっきりしない。上平村・利賀村についても、「五箇山」という同一地域であるため同じ伝承が伝わっているらしい。
富山県利賀村 不明 合掌造りで有名な五箇山にも落人伝説がある。今から二百年ほど前の「北茎」という人の著書「北国巡杖記」に落人伝説が出ているが、この人物が何を見て落人伝説を記したかは不明。平維盛の子孫という説もあるがはっきりしない。郡平村・上平村についても、「五箇山」という同一地域であるため同じ伝承が伝わっているらしい。
石川県河内村 不明 倶利伽羅の戦いで破れた平家一族が河内の里に移り住んだという伝説が残っている。
石川県輪島市 平時忠 平時忠壇ノ浦で源義経に捕えられ、流罪になった場所であるという伝説に基づいている。時忠の子・時国を祖とする一族がいるらしい。
福井県和泉村 平資常 敗れた平家の残党がやってきた伝説がある。ここの平家は最終的には源氏に見つかり滅ぼされたようであるが、柄杓を持って山中に入る時に柄杓の柄が邪魔になり切り落としたため柄の短い柄杓を使ったという伝説が残っている。また、平重盛の子平資常がこの地に逃れ、伊勢という地名をつけたという古文書もあるらしい。ちなみに、この資常は名を変え蜂起に及んだが敗北。その後も名を変え平家再興を目指したがついに実現できずにこの世を去ったらしい。現在は子孫が残っているとのこと。
福井県大野市 不明 倶利伽羅峠で木曾義仲に敗れた平家の一部が逃げ込んで隠れすんだという伝説がある。その中の一部の人は岐阜まで移動したという話もある。実際に平家の落人集落が存在するらしいが詳細不明。ただし、一部方言に理解不能な物があるらしく、平家が互いの会話に使い、平家どおしの会話の内容を探られないようにしたのではないかとの推察が成り立つ。
福井県勝山市 不明 実際に平家の落人集落が存在するらしいが詳細不明。ただし、一部方言に理解不能な物があるらしく、平家が互いの会話に使い、平家どおしの会話の内容を探られないようにしたのではないかとの推察が成り立つ。
岐阜県上宝村 不明 平家落人の伝説が残されているらしい。詳細不明
三重県伊勢市 平知盛 平家物語では壇ノ浦で入水した事になっている平知盛が生き延びたという伝説がある。源氏の追討から逃れるため、一宇郷に逃げのびたらしい。付近には知盛が祀ったといわれる高嶺観音が残っている。 知盛の死後、弔うために久昌寺が建立され、境内には知盛の墓も残っている。
三重県芸濃町 平維盛 屋島で平家の指揮を宗盛に託した維盛は、熊野の水軍を援軍とすべく交渉にしくじり同地にて入水するという話になっているが、芸濃町に残る伝説では熊野では死なず、源氏の追っ手を交わしながら転々と移動し、この地に定住し、死亡したとの伝説が残っている。
奈良県野迫川村 平維盛 ここには「平維盛塚」があります。屋島へ逃げ延びた平家一党は維盛を使者として、熊野水軍に援軍を求めましたが拒否されます。しかし美男子の維盛に、水軍総帥は姫を娶らせて匿いました。その後、源氏からの追討を逃れ奧熊野に逃げこみ、最後は野迫川村へ至り、1219年まで暮らし維盛は死亡したとか。
和歌山県那智勝浦町 平維盛 屋島合戦の後、平維盛が逃げてきて住んでいたという伝承がある。維盛末裔の屋敷跡や揚羽蝶を描いた布や刀等が今も残っている。
兵庫県香住町 平教盛 平教盛(教経の父)一党が壇ノ浦の後に流れ着いたとされる。地元では「百手の儀式」という行事に名残があるらしい。教盛らは修験者の助けられたらしい。「馬場ヶ平」「寄合い畠」などの地名はその名残とのこと。この地にしか育たないと言われる平家蕪もあるらしい。
兵庫県上郡町 平経盛 上郡町の小野豆というところに伝説が残っている。壇ノ浦の後かどうかはわからないが、同地に平経盛率いる平家残党がきたらしい。現在、経盛の墓が平家塚として残っていたり、源氏から身を隠すために入っていた「じゃんじゃん穴」という洞穴が残っているようである。
鳥取県若桜町。 平経盛 壇ノ浦の後、平経盛一党が隠れ住んだが、源氏の追っ手が来たかどうかは不明だが、後に全員が自害したとういう伝承があるらしい。経盛の墓等がある。
山口県下関市 不明 彦島風土記に平知盛が彦島に砦を築こうとしたが屋島の戦いが予想以上に早く決着したので建塞を断念したとの伝説があり、壇ノ浦の後、残党がきたらしい。砦の場所は不明。
山口県錦町 不明 海岸線ではなく陸地の奥に伝説が残っている。平家屋敷や平家の墓などがあるらしい。
香川県高松市 不明 屋島から追われた平氏が落ち延びた場所がいくつかあるらしい。かまとこ地蔵等の遺跡(?)がある。
香川県東祖谷山村 平国盛 おそらく日本で一番有名な落人伝説。一番信憑性があるかも。平教盛の次男である平国盛(家系図にはなし。教経の偽名か?)は、安徳天皇と共に屋島から脱出し大内町に潜伏。その後は吉野川を遡り、山深い祖谷(いや)山に落ち延びたという。安徳天皇は祖谷にたどり着いた翌年に崩御してしまったようですが、国盛は20年程度生き残ったようです。国盛の子孫は「阿佐」という姓を名乗り今でも続いている名家だとか。阿佐家には平氏の赤旗が伝わっているようですが、非公開とのこと。現在でも鉾神社に平家ゆかりのものが収められていたり、「国盛杉」という樹齢800年の大木が残っている。また、最も有名なのが「かずら橋」であろう。蔦や蔓を用いて橋を架け、もし何かあった場合はすぐさま切り落とせる構造であったという。なお、安徳帝は栗枝渡で火葬にされて「栗枝渡八幡神社」に祀られた。社殿にある安徳帝の火葬場は聖域とされ、周囲数メートルはどんな大雪が降っても雪が積もらず、人が入ると腹痛がおこるといって今も人は近寄らないらしい。この一体には、いろいろと安徳帝の行動や平氏に関する名前のついた場所が多い。多すぎるので割愛。
愛媛県保内町 不明 宮内川上流に落人伝説が残る。昔から「不入ずの森」と言われているらしい。
高知県越知町 平知盛 祖谷村のバリエーションのような感じ。祖谷からさらに山を越えて逃げ続け、この地に落ち着いたという伝説がある。ただ、こちらの伝説は平国盛ではなく、知盛一党となっている。安徳帝も23歳くらいまで生き伸びたが合えなく崩御。ただ、現在、この安徳帝墓地は宮内庁管理である「越知陵墓参考地」であり、あながち単なる伝説ではないかもしれない。崩御に際し、玉室大明神として天皇を奉祀され御嶽神社と称していたが、昭和24年、神社名を現在の横倉宮と改めたようである。別の伝承では、知盛と方針で仲違いした安徳帝は四国を抜け出し都にいったりするが、それで足がつき源氏の捜索が強まったりしたという話もある。
福岡県北九州市1 不明 木曽義仲によって都を追われた平家方の女性が子どもを連れてこの地に逃げたが、源氏の追討の時に子どもの泣き声で源氏方の武士にみつかり殺された。その時に殺された女官の一人(?)が、「泣く子を持つ母の苦労を救って欲しい」と願い自殺した言い伝えに基づく祠がある。子供の夜泣きに効果があるとか。
福岡県北九州市2 不明 安徳天皇に仕えた官女が遊女となり、病気で死亡してしまうが、その魂が岩に宿ったという伝説がある。
福岡県篠栗町 不明 筑前国続風土記拾遺によれば、壇ノ浦を逃れた平家の残党が住み着いた場所。平家岩なる岩窟があり其処にすんでいたらしい。他の古文書によれば、安徳帝の妹である千鶴姫が氏尾某という家人がこの地に連れてきたという伝承もあるそうです。
福岡県山川町 不明 壇ノ浦を逃れた平氏の一団がここに逃れてきたらしい。やがて源氏の追っ手と合戦に及び大半が捕縛・殺害され、残ったものもさらに奥地へ逃げ、その落人たちがこっそりと隠れ住んだ土地を「平(デーラ)」と呼ぶとのこと。また、逃げ切れなくなった平家の女官が滝つぼに身を投げた場所に中原の七霊宮なるお堂がある。
長崎県対馬列島 不明 当時、対馬は平氏の領地であったらしく、壇ノ浦の後に安徳帝が逃げてきたという伝承があり、陵墓もある。
長崎県長崎市宇久島 不明 壇ノ浦で敗北した平氏の残党が逃れてきたという伝説がある。
熊本県泉村 不明 現在では地図に無い「五家荘」という地名が落人伝説の残る集落。現在、「平家の里資料館」がある。五家荘の中の樅木地区には険しい谷間にかかる藤のツルや丸太や竹でできた吊橋があり、昔は集落へつながる唯一の道であったとか。この辺は四国の伝説とも似ているものがある。平清経の3名の孫が逃げてきて緒方姓を名乗り、五つの集落に隠れ住んだ事から「五家荘」と呼ぶようになったとのこと。
熊本県五木村 不明 五箇荘と同じ系列の平氏の落人が流れ着いて住んだという説があるが、源氏の子孫という説もある。謎。
宮崎県椎葉村 不明 戦に破れた平氏が逃げてきたが、那須与一の弟大八郎宗久が追ってきた。しかし、宗久はひっそりと農民のように暮らしていた平氏を滅ぼすのには忍びなく、見逃して帰ったという伝説がある。ちなみに宗久は「討伐してきました」と嘘の報告をしたらしい。また宗久と平家の姫との請い物語もある。
鹿児島県阿久根市 不明 壇ノ浦の後、特に九州には多数の平家が落ち延びたらしい。ここもその一つ。上陸した平氏はこの地まで逃れ発見した野生の桑畑から養蚕業を営み「桑原」という姓を名乗り生き延びたらしい。ちなみに、平氏は京都にいた帰化人の養蚕を真似たようで、その時の帰化人の姓が「桑原」であったとのこと。
鹿児島県川辺町 不明 平家の落人集落があり、伝説によれば、年末に逃げてきたが暗闇で荷物を解けないとき、いきなり月が出てきて辺りを照らしたことから「庭月野」という集落名と苗字をつけたらしい。現在でも川辺町の集落には同名があり、同じ苗字の人が数世帯いるとのこと。この集落は正月に門松を立てない風習が残っている。
鹿児島県瀬戸内町 平資盛 平資盛を祭る神社や墓がある。また資盛が始めたとされる踊り(?)が今も残っている。
鹿児島県龍郷町 平行盛 平行盛神社がある。また有盛や行盛が城を築いたとされる城址もある。
鹿児島県トカラ列島 不明 それぞれの島に残る姓のうち、一部が平氏が逃げてきた後に自称したものであるという伝説がある。また、仲盛と光盛の墓や、本来自生していなかったユリを平家の公達がこっそり持ってきて群生した袂ユリという品種もある。行盛や有盛、宗衝の子孫がいたり、元服の儀式が残っている島もあったりします。安徳帝も逃げてきていたらしい。島津氏の琉球への案内役をしていたという話もある。また、一部の島にはキャプテンキッドの財宝や地下宮殿が眠るという話までのこっている。まゆつば。
鹿児島県名瀬市 平有盛 平有盛神社がある。有盛は源氏が攻めてくるという噂の重圧に耐え切れず自害したという伝説が残っている。
鹿児島県枕崎市 不明 壇ノ浦から逃れた平氏の一部が長崎を回りここにたどり着いたという伝説があり、また、壇ノ浦より前、一ノ谷で敗れた平氏が先に来ていたという説もあります。
鹿児島県三島村1 平資盛 屋島の段階で安徳帝を逃がすというのは結構共通の話かも。安徳帝の替え玉を使い、三種器と共に逃げ出した平資盛は鹿児島にたどり着き、何度か居場所を変えた後、この地に落ち着いたとの事。途中でもてなした武士の家には安徳帝の皿が残っていたという伝説もある。
鹿児島県三島村2 不明 壇ノ浦(もしくは屋島)の後に安徳帝が逃れてきたという伝承があり、平家とは別にしても俊寛が流刑された地としても有名。当の俊寛のお堂や、安徳帝の陵墓、平経正、平業盛、佐内侍らの墓が現存するらしい。
鹿児島県山川町 不明 年末に逃げた平氏が来たという伝説のみ。もしかしたらここも門松を立てない風習があるかも。ただ、一部集落では、鹿児島にはない風習・民具や陶磁器等が残っているらしい。

とまあ、ここまで書きました。
結構有りますが、鹿児島に集中していますね。
当時の日本の最南端であることと、源為朝の例のように遠方に逃げれば追っ手が来ないという願望もあったのでしょうか。
または、伝説として残すためには中央政府から縁遠い場所に根付かせるという観念的なものもあると思います。

四国と熊本については、かなり真実性は高いと考えています。
それ以外の場所についても、結構真実味が強いので、興味津々ではあります。
ですが、まあ、いちサラリーマンに出来るのはこのくらいが限界ですかね?
一週間くらい仕事休んで国会図書館にでもコモれば、また違うでしょうけど。

ちなみに・・・・なんですが、最初でもふれたとおり、このテキストはおよそ8年前くらいに別のHPをやっていた時に書いたものです。
今は、Wikipediaのような便利なものがありまして、そちらでも同じように各地の落人伝説を記載しています

平家の落人 wikipedia

こちらにあるものが、あちらになかったり
ありらにあるものが、こちらになかったり・・・と

まぁ、昔に書いたテキストですので、いまさら再検討するとかは今のところは考えておりません。
平家の落人といいながら、平家に連なる武家は幕末までしっかり残ったりもしてますしね。

これ以外に何かご存知の情報がありましたら、ご連絡いただければ幸いです。
適宜、追加させて頂きます。

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